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幸手宿は、日本橋から6番目の日光街道および奥州街道の宿場町で、また、日光御成道6番目の宿場でもあった。 日光街道では、手前が杉戸宿で、次が栗橋宿。 日光御成道では、一つ手前が岩槻宿で、中山道の本郷追分から分岐していた街道が幸手宿で合流している。 交通の要所であり、江戸幕府直轄の天領となっていたという。
宿場は、江戸側から、右馬之助町、久喜町、仲町、荒宿で構成され、天保の記録では、家数962軒、人数3,937人、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒とという規模であったという。


のどかな小田舎といった趣の東武鉄道 幸手駅のホームに降り立った。
今回は、権現堂堤の桜を見てきたのだが、バスの運行が遅れ気味で、いつ乗れるのか分からない。
現地までは、歩いて30分ほどとの事なので、そのルートにあたる日光街道 旧幸手宿を歩いて見ることにする。


駅から日光街道に向かう。
途中にあるのが一色稲荷神社(陣屋稲荷)で、幸手駅からこのあたりは、幸手城の跡地であると言わている。
幸手氏は、室町後期の古河公方の家臣で、一色稲荷は守護神として館に祀られていたものと伝えられているらしい。
しかし、現在、周囲に城跡の遺構などは残っていないようだ。


幸手駅入口の交差点から日光街道に入る。
このあたりは、幸手宿の日本橋より(杉戸宿側)、「右馬之助町」であったようだ。
ここから、町並みや建物を適当に見ながら街道筋を歩いてみることにする。


「擔景寺横町」という標識が出てきたので、とりあえず、そちらに行ってみる。
横町とあるが地名ではないようで、住所は幸手市中2丁目だ。


脇道に入るとすぐ、その擔景寺がある。
創建は室町末期頃と思われる阿弥陀如来を祀る浄土真宗寺院であるが、 幸手宿との関わりなどについては、特に記述がなかった。


隣の常光寺は、江戸前期、延宝八年の創建、大日如来を祀る天台宗寺院であるという。
やはり、幸手宿との関連では、特に記述が見られなかった。


日光街道に戻る。
創業は明治36年だという酒店の永文商店。
店舗の右奥には、荷物運搬のトロッコが現役で、旧商家の佇まいを見せている。


このあたりは、すでに幸手宿の「久喜町」に入っているようだ。
ややこしいのは、現在、ここは幸手市で、隣の久喜市には日本橋から7番目、旧栗橋宿の街道筋も含まれる。
この微妙なスペースは、幸手宿の問屋場跡で、荷物の運搬などに関わる人足や馬の手配や管理を行う施設があった。


旧家も散見する旧幸手宿久喜町の町並み。


「幸手宿本陣 知久家跡」の案内がある。
知久家は、初代の帯刀が久喜町を開拓し、代々、本陣、問屋、名主を兼任する地元の名士であったらしい。


飯村医院の建物。
このような感じの旧家が街道沿いには残っている。


おそらく、このあたりから幸手宿の「仲町」に入るものと思われる。
「鍋清」の屋号が掲げられている成田金物店は、江戸から続いている商店だという。

建物の正面からでは分からないが、敷地には蔵もあり、いかにも旧商家という趣だ。
運搬用トロッコのレールが残っっているところにも歴史を感じる。


向かい側にある長島ガラス店にもトロッコのレールが残っている。


かなりの旧家に見える関薬局の敷地と、付近の路地。