馬橋駅から流鉄流山線に乗り込む。
鉄道ファンには人気だという、このローカル線は、距離5.7kmに6駅で所要時間12分と短い。
なんでも、歴代の車両は西武鉄道のお古で運行されているようで、現在の5000系は、西武時代に新101系だったものらしい。
(左)電子マネーは使えず、久しぶりに切符を買う。無人駅ではないが切符を切る駅員はいないようだ。


終点の一つ手前、流山4丁目にある平和台駅で下車。
昔は、江戸川の水運を利用した商業都市であったというが、現在は郊外の住宅地といった景観だ。
ここから、流山駅周辺にかけてが流山本町にあたるようだ。
平和台駅から流山駅間は、路線の中でも、ことさら短い0.6km所要時間1分・・・この狭い街に果たして何があるのか。
(右)踏切の向こう側が流山市平和台で、こちら側が流山市流山。
今回、踏切は渡らず、流山1〜7丁目あたりを中心に歩くことになりそうだ。


長流寺
最初に訪れたのは、流山6丁目の長流寺だ。
江戸初期創建の浄土宗寺院であるという、この境内には人っ子一人いない。
マップには、新選組隊士が分宿した可能性が高いとあるが、それを示すものは特に見当たらない。
バックに見えるケーズデンキの場所には、その昔、天晴みりんの工場が建っていたという。
流山においては、秋元家の天晴みりんと、堀切家の万上みりんが、2大ブランドであったらしい。
(左)付近にはキーコーマンの工場があり、現在もマンジョウ本みりんが生産されている。


流山七福神の恵比寿神が祀られている。
ただ、一巡25kmとあり、東京のように歩いて回れる代物ではない。


一茶双樹記念館
ここは、酒造業で繁栄し天晴みりんを生産していた秋元家の住宅を復元した建物で、市の史跡に指定されている。
双樹とは、みりん開発者の一人と言われる五代目秋元三左衛門が用いた俳号で、小林一茶と親交があったという。
秋元家は裕福な商家で、一茶が度々訪れたとあることからスポンサー的な意味合いもあったように思われる。
現在、幕末の商家を再現した秋元本家、安政年間の書院を復元した双樹亭、枯山水の庭、茶室の一茶庵がある。







秋元家の2階は、秋元双樹に関しての展示室となっている。


光明院
また、人っ子一人いないお寺の境内へと入ってきた。
ここ真言宗 光明院の本堂には、「新選組隊士分宿の寺」とあるが、それ以上、新選組の記述などは見当たらない。
このあたりは、江戸川沿いで新選組は付近の渡しから川を渡ってきたのだという。
創建不明とあるが、豪商秋元家の菩提寺であることから流山では有力な寺院であったことが伺われる。


(右)みりん開発者で、一茶との親交でも知られる秋元双樹の墓所。


赤城神社
光明院と隣接した小山は赤城神社であるらしい。
神仏分離前は光明院が別当寺院であったといい、隣接というよりもお寺の境内にある感じだ。
やはり、人っ子一人いない赤城神社は、鎌倉時代の創建とも伝わる古社で元和6年に再建されたとある。
伝説によると、洪水により群馬の赤城山の一部が崩れて流れ着き、流山という地名の由来となっているという。


標高15mであるらしい赤城山を登る。


依然として、人影はないが、飼い猫(たぶんお寺の)が戯れている。


(左)赤城神社の鳥居。
(右)山門の大しめ縄は、毎年秋に作られ、その行事が市の無形民俗文化財として登録されているのだとか。


流山寺
流山7丁目に入り、またまた、人っ子一人見えない、ここは寺号に地名を冠する流山寺。
江戸初期に創建された曹洞宗寺院であるが、現在は、昭和40年に再建されたという近代的な本堂が建っている。
寺号の由来や、新選組についての記載は見当たらないが、ここも隊士が分宿していた場所であるらしい。
(右)猿田彦の石像。


流山七福神の大黒天が祀られている。


流山6丁目に戻り、ここから流山駅方向に北上(たぶん)する。
(左)江戸時代創建の寺田稲荷。
(右)ほとんど観光客らしき人(地元民も)を見かけないが、一応、観光地らしく時折道標がある。
次は、“近藤勇陣屋跡→”とある方に行ってみる。

