甲斐の地は、なんと言っても戦国大名として名を馳せた「武田信玄」の本拠地として知られる。
織田信長により武田家が滅ぼされると、甲斐は争奪戦の場となり混乱に巻き込まれるが、
江戸時代には、再び、要衝の地として徳川一族、重臣が治める甲府藩、あるいは幕府の
直轄地として甲府城下は発展を見せる。
今回の甲府編では、やはり信玄ゆかりのスポットをめぐる。
とは言え、一日で回れるのは、数多あるスポットの一部でしかないのだが。
いずれも、甲府駅からバスなどで10分とか20分圏内にある場所で構成されたルートだ。
この時期は、大河ドラマ「風林火山」旋風の真っ只中だった。
≪Today's lineup≫
甲府駅→善光寺駅→
「善光寺」→「東光寺」→
「武田神社」→「積翠寺」→
「山手御門」→「舞鶴城公園」→
「風林火山博」→甲府駅
甲府駅のフォームから城らしきものが見える。
甲府には、昔、一度来たことがあるのだが、こんなのあったかな?
とりあえず、ここにも後ほど寄ってみる。
まず、向かったのは甲斐善光寺。
甲府駅からローカル線の趣がある身延線に乗り込む。
バスみたいな料金体系のワンマン電車だ。
無人駅の「善光寺」で下車する。
「甲斐善光寺」は、あるいは「信州善光寺」を信玄が略奪してきたものとも言えるかも知れない。
信仰の対象を取り込んでしまう戦略は諏訪攻略時と共通するものだが、そこには、
なにより、その経済効果・権益に魅力があったのではないだろうか。
謙信との間で繰り広げられた「川中島」争奪戦には、
この「善光寺」争奪戦の側面も強くあったものと思われる。
本尊の「善光寺如来」は武田滅亡後、紆余曲折を経て信濃に帰還。
それに伴い、前立像であった阿弥陀三尊像を本尊に定めたらしい。
結局のところ、善光寺の本家は信州に戻っているのだが、ここも由緒ある名刹であることは疑いない。
江戸時代の寛政年間に再建された山門と金堂。重要文化財に指定されている。
金堂では、天井に描かれた龍の下で手を打つと反響する「鳴き龍」と地下の真っ暗な回廊を歩く「お戒壇廻り」が名物となっている。
境内の池と大仏。
(左)時の鐘だという銅鐘。
(中)何かのお堂。
善光寺から5分か、もう少しか・・・歩いてきた。
これは、甲府地場産業センター「かいてらす」なる建物。
要は、土産物屋だ。
ここで昼食を摂り、次は、この付近にあるはずの東光寺に向かう。
近所で道を尋ねながら、ちょっとだけ、分かりづらい場所にある東光寺に来た。
平安時代末期に甲斐源氏の祖新羅三郎義光により創建されたという古刹だ。
当初は密教であったようだが、鎌倉を追われて来た蘭渓道隆が禅寺として
再興したのだという。
この寺の格式を表すものに、信玄が京都や鎌倉の真似っ子したらしい「甲府五山」という制度があり、
もちろん「東光寺」が、その一つである。
京都や鎌倉のように明確な序列はないようであるが、
戦国時代の甲府を代表する寺院ということである。
再び、興隆を見た東光寺の当時の住職は、信玄の伯父にあたる藍田恵青和尚で、
信長によって武田が滅ぼされた際に恵林寺の快川和尚らと共に火炙りになったメンバーの一人であるという。
江戸時代には、甲府藩主として治めていた柳沢家と深いゆかりがあったようだ。
山門をくぐると、仏殿の特徴的な屋根が見える。
参道の長さを考えると本来は広い敷地なのだろうが、意外に境内はこぢんまりとした印象だ。
(左)梵鐘と仏殿。
きれいに整備された庭が印象的だ。
(左)本堂。
(右) 重要文化財の「仏殿」。織田の焼き討ちや空襲からも逃れた強運な建造物らしい。
(左)信玄の嫡男「武田義信」と、信玄の妹婿で諏訪の大祝家当主「諏訪頼重」の墓所。
身内でありながら、共に信玄により死をもたらされたという共通点がある。
(右)五代将軍徳川綱吉の側用人 柳沢吉保の嫡子吉里の男子二人の墓所。なんか、まわりくどい・・・
蘭渓道隆の作庭と伝わる「池泉観賞式庭園」。北宋山水画風の作庭法で中国風なんだとか。
龍門瀑と呼ばれる石組みは禅の思想が反映された日本庭園の代表的な手法であるという。
滝を登った鯉が竜に化身する様を表現していて、登竜門の故事にちなんだものらしい。