前回のPart1では、かなり定番どころを中心に回った鎌倉だが、まだまだ到底回りきれるものではない。
今回は、基本的には、前回行かなかった場所となり、今日は、江ノ電には乗らない。
大まかなルートとしては、また北鎌倉からスタートするのだが、前回訪れた、円覚寺・建長寺とは、
鎌倉街道を挟んで反対側の
東慶寺・浄智寺・長寿寺と進む。
前半、北鎌倉のメインは、今年から一般公開になったらしい長寿寺だ(足利尊氏の墓があるらしい)。
その後は、源氏山方面に登り、コースも中盤の銭洗弁財天は、定番中の定番。
更に、鎌倉市街に降りて、後半は、護良親王ゆかりの鎌倉宮を目指す、というルートだ。
そして、やっぱり、鎌倉に多いのは、坂と階段・・・まあ、そんな、ところだ。
Today's Lineup
北鎌倉駅→
東慶寺→浄智寺→長寿寺→
薬王寺→海蔵寺→源氏山公園→
銭洗弁財天→佐助稲荷神社→
大巧寺→
高時切腹やぐら→宝戒寺→荏柄天神社→
鎌倉宮→源頼朝の墓→
鎌倉駅
見ての通り、北鎌倉駅前だ。
ずっと“鳩サブレ”だと、思っていたが、
“鳩サブレー”だったらしい。
しかも、東京のものだとも思ってた。
そもそもは、鶴岡八幡宮参拝土産の定番だったようだ。
北鎌倉駅を出て、鎌倉街道を少し行くと、最初の目的地の東慶寺がある。
名前は知らなくても、「駈込寺・縁切寺」と言うとピンとくるって人が多いのではないどろうか。
この「縁切寺の寺法」と言うのが、江戸幕府も公認したという特異なもので、このお寺の権威の程が窺いしれる。
ここでは、キーパーソンとして、3人の姫の存在がある。
まずは、初代の「覚山尼」。(創建は嫡男の北条貞時になるらしい)
北条時宗の正室で、兄は安達泰盛と、権勢の真っ只中にあり、差詰め今風に言えば“超セレブなお姫様”だ。
2人目は、第5世「用堂尼」として君臨した後醍醐天皇の皇女だ。
それにより、「松ヶ岡御所」と称されるようになった、このお寺のステータスも上昇したんだとか。
そして、3人目の第20世「天秀尼」の正体は、豊臣秀頼の姫であるという。
大阪夏の陣の後に、豊臣家断絶を企てた、徳川家康によって送り込まれたとなっている。
この草木の中、山門に上がる階段が、いかにも鎌倉らしい(に限らないかもしれないが)景色だ。
本堂は、釈迦如来を祀っているんだとかで、昭和10年の建物らしい。
(左)背後に山並みが見える境内は、ここが山の麓にあるんだって感じる景色(そのまんまか)。
(中)この鐘は、南北朝時代の古いものが残ってるらしい。
(右)茶室らしき建物。
(左)境内中程に、おもむろにある大仏?デカくはないが。
(中)外からは、立派な蔵に見える「松ヶ岡宝蔵」。いわゆる資料館だが、今回は見なかった。
(右)「さざれ石」とか書いてある。石灰質角礫岩だとか、余計わかんないか。
境内の奥の斜面の慕域には、著名人?の墓が多くあるようだが、ほとんどは、マニアック過ぎて?知らない。
(左)大松博文の墓。東京オリンピック・バレーボール金メダルの監督らしい。
「根性」と書かれたバレーボールのオブジェが目を引く。
(中)岩波書店創立者の岩波茂雄の墓。
(右)「後醍醐天皇 皇女 用堂女王墓」と書いてある。この階段上がるらしい。
階段を上がったところ歴代住職の慕域のようだ。
これは、東慶寺中興「釈宗演墓」。誰だそれ・・・と思ったのだが、明治・大正期の仏教界の大物らしい。
慶應義塾で福沢諭吉に学んだ秀才で、禅を英語で世界に広めた人物なんだとか。
ちなみに、微妙に写ってないが、この写真のちょこっと右側に、第20世「天秀尼墓」(秀頼娘)がある。
(左)後醍醐天皇皇女の「用堂尼墓」。
(中)北条時宗の正室で、この寺の開山「覚山尼墓」。
墓地とはいえ、山の斜面から眺める景色はなかなかのもの。
東慶寺を後にして、
鎌倉街道を更にちょっと歩いて、
浄智寺へと向かう。
「五山第四 浄智寺」
「鎌倉 江ノ島 七福神 布袋尊 浄智寺」
なんてのが、見えてくる。
臨済宗なので、ここも鎌倉らしい禅寺ってことだ。
ここは、北条宗政の菩提を弔うために創建された寺で、本尊は阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来だという。
この人物は北条時頼の3男で、北条時宗の弟にあたるらしい。
鎌倉五山にラインナップされる格式の高い寺だが、建物類は関東大震災で壊滅し、その後に再建されたものらしい。
案内板によると、それでも、境内全体が、国の史跡に指定されているとのこと。
(左)外門の前にある鎌倉十井のひとつ「甘露の井」。鎌倉には、こういった名水スポットが多い。
言葉のイメージとは裏腹に、このあたりは水事情が悪くて、まともな水が貴重だったってことらしいのだが。
(右)写真だとわからないが、上層が鐘楼になっている変わったタイプの山門。真新しく見える。
扁額に曇華殿とある、仏殿らしい。
方丈だと思われる建物。ここもやはり庭がきれいだ。
(左)本堂の裏手に肩身の狭い感じで立つ「聖観世音菩薩像」。
(中)このトンネルをくぐった先には、「鎌倉 江ノ島 七福神」の布袋さんがいる。
くじら目で、指差す、この布袋さん、撫でるとご利益があるみたいで、記念撮影の人気ものになってた。
(右)この一帯は、やぐら跡。"やぐら"というのは、"櫓"ではなく、鎌倉特有の"横穴に墓のあるやつ"のことらしい。
そのあたりの地面に置いてあるタヌキ。写真のサイズ合わせで載せただけで、特に意味はない。
鎌倉街道に戻り、また少し歩くと、今回の注目「長寿寺」へとたどり着く。
前回のPart1でも、通っているはずだが、全く気がつかなかった。
それも、そのはずで一般公開されていなかったらしいのだ。
「本日特別拝観」と札が出ているのだが、曜日を意味するのか、期間限定なのかは定かでない。
果たして、足利尊氏の墓とは?
早速入ってみる。
有名人の墓とされるものが複数伝わるというのは、良くあることではあるが、なぜここなのか?
ちょっと怪しいのかと思ったが、寺の縁起を見ると、そのあたり結構一目瞭然だったりする。
なぜなら、ここは、尊氏の子で「鎌倉公方」の足利基氏が父の菩提を弔うため「足利邸跡」に建てたものだからだ。
ちなみに、実際に、墓に埋葬されているのは"遺髪"と伝わっているようだ。
境内に入ると、新築されたと思しき「方丈・書院」と綺麗に整備された庭が。案内人までいる。
ここまでして、期間限定は、たぶんないだろうなあ?
真新しく見える境内の中で、この観音堂は年代物に見える。
奈良の園成寺に在った多宝塔を改造移築したものだと書いてある。
(左)これが、その「足利尊氏の墓」だ。
この時代の権力者は、供養に立派な寺を建てたりしても、あくまで墓は質素を好んだのだろうか。